
↑感じの絵、みたことありますか。
はじめてみたとき、ギョッとしました。
色彩が暗いし、なんだか気味が悪い。
ある日、友人の家で、1冊の本に目が留まる。
どこかで、聞いたことがある名前。
ペラペラとめくる。
彼女の絵に対する見方が変わりました。
三橋節子。
1939年3月3日、父三橋時雄(京都大学農学部教授)と母珠(たま)の長女として、京都に生まれる。
節子は、裕福な家庭で、温かい父母兄弟に囲まれて、何ひとつ不自由なく育つ。
高校卒業後、京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)の日本画科へ入学。
在学中より新制作展に入選し以後毎年出品。
29歳のとき、同じ日本画家である鈴木靖将と結婚。
3年後、長男草麻生(くさまお)、その翌年長女なずなが誕生する。
「神様のような夫」に、この上なく愛され、その夫との間に一男一女をもった妻、そして生活も、少しずつ画が売れ始めて、どうにか食べられるようになる。
彼女の生活は、公的にも、私的にも順調そのものであった。
その彼女の人生を、突然に病気が、画家としての何よりの武器である右手を奪い、生命すら危険にさらそうとする病気が襲う。
節子が33歳のとき、右鎖骨腫瘍のため右腕の切断を余儀なくされる。
右腕を切断したからとて、病気が完治したという保証はなかった。
絵を描くこともできなくなった。妻として、母としてやっていけるのか。
将来に対する明るい希望はなく、絶望的な思いで過ごす。
夫靖将の
「右手はなくても、俺の手と合わせて三本あるではないか」
という言葉に励まされる。
左手で鉛筆をとり上げ、左手で文字を書く練習をはじめる。
そして、六ヶ月はかかるという字の練習を、一ヶ月足らずで仕上げた。
絵筆もとりはじめ、半年後には、百号2点の絵を描いて再起した。
「絵は心で描くものだ。左手があれば十分だ」
と繰り返し自分に言い聞かせ、描き続けた。
従来の彼女の絵よりも、はるかに優れた作品を生み出していく。

「三井の晩鐘」
昔、龍王の娘が漁師と恋をし、赤ん坊を産んだ。
ある日、女は「実は私は琵琶湖の龍神の化身で、神様にお願いして人間にしてもらいましたが、もう湖に帰らねばなりません」と残し、湖へ沈んでいった。
母のない子は、乳ほしさにひいひい泣く。
すると女があらわれて乳をのませては、また沈んでいく。
子供に乳をやりたい。やらねばならぬ。
が、龍の社会の掟は守らねばならぬ。どうしても湖底からでるわけにはゆかない。
女は苦悩する。苦悩の末、女は自分の右の目玉をくりぬいて渡す。
泣く子にその目玉をなめさせてみると、不思議に泣きやむ。
が、やがて目玉をなめ尽くしてしまう。
女は、風の便りにそのことを知る。
もう一つの目玉をもって行ってやりたい。
しかし、この目玉をとどけたら、女は全く盲目になってしまう。
女は、思い悩む。
火のように泣き叫ぶ泣き声が聞こえてくる。
女は決心して、自らの目玉をくり抜いて、浜の夫のところへ届ける。
女は最後に一つだけ夫に頼む。
両方の目玉がないと方角が分からない、どうか毎晩子供を抱いて、三井寺の釣鐘をついて欲しい、釣鐘の音で、夫と子供の無事を確かめたいと女は頼む。
それから毎晩三井寺では晩鐘をつくようになる。
(「近江むかし話」より)
この盲目になった龍の女は、その後どう生きたのか。
人間と結婚し、人間の子を産んだ龍の女が、龍の世界で重んじられるはずもない。
生きとし生けるものの受ける苦しみを、この龍の女は受け、のたうつように湖の底で生き続けたのだろう。
何度、女は死んでしまいたいと思ったことか。
が、毎晩、かすかに湖の底に聞こえてくる鐘の音に夫と子の無事を喜んで、屍のような生を耐えたのではないだろうか。
節子は、この龍女に自分を重ねた。
盲目の龍女と右腕を失った自分。
いずれは子供たちを残して、旅立たなければならない自分を。
龍女は、形見に、自分の目玉を残す。
節子も、何か子供達に残してやりたいと思う。
彼女が残せるものは、絵だけである。
彼女が、病後の体に、渾身の情熱をふりしぼって左手で絵を描いたのは、こういう形見を残しておきたいという意志ゆえである。
そして、草麻生となずなのために一冊の童画を残す。
その年の暮れ、肺に白い影がみつかる。癌が肺に転移した。
左肺の腫瘍摘出を行うが、この時は手遅れであった。
病室で、5歳の草麻生君、3歳のなずなちゃんに葉書を書く。
【息子くさまおへの便り】
「くさまおくん、おげんきですか。おたんじょうびは、たくさんプレゼントもらって、たのしかったですね。
すぐこわしたりしないで、だいじにあそぶのですよ。
このごろはひとりで、ようちえんへいけるそうですね。もう5つのおにいちゃんですものね。
きょうは、たくさんゆきがふっていますね。どのくらいつもるかな。
また、ゆきだるまをつくったり、こうえんでソリができ、たのしみですね。
では、さようなら△またきてね□また病院にきてね、バイバイ」
【娘なずなへの便り】
「なずなちゃん、おげんきですか。きょうは、たくさんゆきがふっていますね。
“ゆきやこんこん あられやこんこん ♪♪・・・
なーなーはこたつでまるくなっているのか、おにわをかけまわるほうか、どっちかな。
おにいちゃんと、けんかをしないで、なかよくしていますか。
また、こうえんで、ソリにのりましたか。
おじいちゃん、おばあちゃんも、かぜをひかれたそうで、
みなさんに、ごめいわくかけ、すみません。よろしくね。
かあちゃんのかわりに、おばあちゃんのおてつだいしてあげてね。
じゃバイバイ、またきてね。」
この葉書が届くか届かないかの、昭和50年2月24日、節子は息をひきとる。
享年35歳。
今年の6月、幼なじみが亡くなった。
事故だった。
幼稚園に4歳の息子を送るため、信号を渡っていた。
スクールバスが、彼女たちのほうへ。
彼女は、とっさに子供をかばったのだ。
私は、その訃報を聞き、急いで、羽田から実家のある福岡へ向かった。
彼女は一人っ子だった。
誰よりも大切に育てられた。
その大切な娘を失った、年老いた、彼女の両親を見ることはできなかった。
彼女の息子は、右足にギブスをして、一人でポツンと、お行儀よく、椅子に座っている。
お通夜、お葬式の間中、涙をみせない。
皆に心配をかけるまいと、必死に涙をこらえていた。
まだ、4歳である。
こんな幼い子供を残して、旅立たなければならない、彼女の心を思うと、私は、涙をおさえることができない。
三橋節子美術館
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