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【国内旅行】おひとりさま・一人旅プラン特集
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    【国内旅行】

  • おひとりさま・ひとり&一人泊るホテル
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    高級ホテルで、夜景を見ながら、エステ&マッサージを受けながら、スパ&フィットネスクラブ&プールで気持ちの良い汗を流しながら、ちょっとリッチなディナーやランチを食べながら、優雅に過ごしてみたい。ホテルの「おひとりさまプラン」を集めました。(現在、作成中です。少しずつ追加していきますので、時々のぞいてくださいね。)








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テーマ:国内旅行 - ジャンル:旅行

ムハマド・ユヌス(グラミン銀行創設者)


私たちはみなそれぞれ内側に隠されたものを持っている。

それを捜し求める機会が十分にないだけなのだ。

自分の可能性限界まで試すことができる環境を作り上げない限り、私たちが自分の内側にあるべきものに気づくことは決してないだろう。

しかし、どこかへ行くかは1人ひとりの人間が責任をもって決定しなければならないことである。

私たちはこの星の航海士や水先案内人のようなものだ。

その自らの役割を真剣に考えるならば、私たちは前もって決めておいた目的地に向かって進むしかないのだ。

―ムハマド・ユヌス―








1940年、バングラデシュ第二の都市チッタゴン郊外で生まれる。

宝石商の8人兄弟の三男として、中流家庭に育つ。

チッタゴン大学を卒業し、同大学の経済学講師を4年間つとめたのち、フルブライト留学生として渡米。

バンダーブルト大学で経済学の博士号を取得し、中央テネシー州立大学経済学部助教授に就任。

1972年、バングラデシュ独立後、帰国。

バングラデシュ政府経済局計画委員会副委員長の後、チッタゴン大学経済学部の学部長に就任する。



ユヌスは、理想主義に燃え、夢をいっぱいに抱えてアメリカから帰ってきた。

自分が身につけた合理的な西欧流のアプローチを使えば、あらゆる問題に対処できるだろうと考えていた。



だが、街には、貧困と飢えが蔓延し、骨と皮ばかりになった人々が路上で次から次へと死んでいく状況を目の当たりにする。

彼が学び、教えてきた経済理論が、目の前で起きている現実問題には何の役にも立たないことに愕然とする。



何かが間違っている。

ユヌスは、無力感に打ちのめされた。

1974年の大飢饉が状況をさらに悪化させている。

なんとかしなければならない。

その日1日、たとえほんの数時間でも、自分を他の人のために役立てることができるはずだ。



ユヌスは、大学近くのジョブラ村の貧しい家庭を訪ね歩く。

そこで、ソフィアという3人に子持ちの若い女性に出会う。

ソフィアは竹椅子を作ってその日の糧を得ていた。

ソフィアは、パイカリ(高利貸し)から5タカ(16セント=20円弱)を借り、商人から材料を買う。

借金を返すために、その日のうちに竹椅子を作り、パイカリ(高利貸し)に売る。

利益のほとんどが、パイカリ(高利貸し)の高い利子に消えてしまうため、一日働いても2セント(2.5円)の利益にしかならない。

高利貸しから借りた者は、ほんのわずかな借金を返しただけで、また再び借金をしなければならない。

彼らは、悪循環に陥り、ますます貧しくなっていく。

死ぬまで高利貸しの奴隷になってしまう。



ユヌスは、わずか16セント(=20円弱)の金がなくて苦しんでいる人の話を聞いたことがなかった。

ポケットに手を入れて小銭をさぐり、ソフィアが資本としてほしがっている、わずかな生活費を与えてしまおうという衝動に駆られた。



私たちの良心は、施しをすることでかなり満足する。

施しは貧しい人から貧困脱出のためのやる気を奪い去り、彼らをますます堕落させてしまう。

なんの解決にもならない。



ユヌスは、なぜソフィアが苦しんでいるのかを考えた。

彼女の抱えている悪循環を断ち切るにはどうしたらよいのか。

自分が5タカを貸してやればいい。

借金をしなくても、材料の竹を買えるようになるし、作った竹椅子を、不当に安い値段に商人に売る必要もなくなる。

今よりも高い値段をつけて自由市場で売ることができる。もっと大きな利益を手に入れることができるはずだ。



ユヌスは、学生に、ソフィアと同じ境遇の人がジョブラ村にいるかを調べさせた。

42世帯の人々が、合計で856タカ借りていた。

アメリカ・ドルにすると、わずか27ドル(3240円)にも満たない。

1世帯が1ドルに満たないお金で悲惨な状況を強いられている。

私が27ドル貸そう。余裕ができたら返済すればいい。



制度化されれば、もっと多くの貧しい人たちが幸せになれるはずだ。

銀行に頼むことを思いつく。



銀行は、貧しい人たちは、「額が小さすぎる」「担保がない」「読み書きができない」「技術がない」「信用ができない」などの理由で拒絶した。

ユヌスは、身銭を切る覚悟で保証人になった。

6ヶ月後、ようやく銀行から融資の承諾を得る。



銀行は「このお金は絶対に回収できない」と言った。

だが、ユヌスが42世帯に貸したお金は全額返済された。



銀行は「1つの村だからできた。2つの村で同じことをやったら失敗する」と言った。

2つの村で試みた。うまくいった。

5つ、10、20.50、100の村に広げて試したが、そのたびごとに成功した。

貧しい人たちは信用できることが証明された。



だが、銀行は考えを変えなかった。



ユヌスは、自分で銀行を作ることを決意した。

銀行設立の許可を求めて政府に掛け合った。

2年の後、ようやく銀行を設立できることになり、1983年に銀行が誕生した。



従来の銀行とは逆のやり方をした。

①借り手たちが銀行に出向くのではなく、銀行員が借り手たちのところに直接出向いて行って融資をする。
週ごと、月ごとに行員が借り手の家に行って、チェックをし続けている。借り手の経済状態がいいかどうか、借り手がローンの返済をできるかどうか、そして家族全体の利益につながっているかどうかを調べる。

②担保となる資産や土地のない人、特に女性を中心に貸し付ける。
貧しい女性たちは、最も苦しんでいる人である。女性たちは、子供たちが今よりももっといい生活ができるようにといつでも心を砕いている。ほんの小さなチャンスであっても、貧困から抜けだそうと一生懸命に働く。貧しい女性たちは、このローンの返済に失敗したら、生きていくことさえ危なくなることを知っている。ゆえに、返済率はより確実・継続的になる。

③「借りての返済能力」を土地ではなく、「仲間からの信頼」を担保にする。
借り手は、5人で1組のグループを作る。それぞれが自分の仕事に必要なお金や収益性について計画を立て、それをグループ内でチェックする。グループのメンバーは同じ村に住んでいるので、お互いの性格や仕事ぶりをよく知っている。お互いが励ましあい、アドバイスしあう構造が生まれるため、返済率は高くなる。

④技能訓練などを行わずにまず最初にクレジット(お金)を渡す。
漁や耕作など貧しい人たちは、創造的で、悲惨な環境の中でも生き残っていく術を知っている。新しい技術の習得に時間を費やすよりも、彼らにすでに備わっている技術を最大限に使うことのできる機会を与える。

⑤一般の銀行が取り扱わないような、数十ドルから数百ドル程度の、ごく小額の資金から貸し付ける。

⑥融資期間が短期で、1回の返済額を小額に設定し、翌週からの分割返済を義務づけ、返済に対する心理的障害を除くように務めている。
完済することで、自信を得て、次の融資を申し込み、事業を拡大する。
それを数回繰り返すことで、自立していく。





数々の障害にぶちあたる。男性社会、宗教家、政治家からの誹謗中傷・暴力的な脅迫にあう。

グラミンは、彼らと対立を避け、静かに、ゆっくり慎重に着実なやり方で活動を続けた。



グラミンは貧困線上に引き上げるために、衛生設備や生活の質の向上をめざした。

雨をしのげる屋根のある家、衛生なトイレ、清潔な水、就学年齢に達した子供の教育、毎日3回の食事、定期的健康診断などの取り決めをした。

飢饉や不足の非常事態に対処するための貯蓄制度、住宅ローン、教育ローン、高等教育ローン、奨学金制度、グラミンのメンバーの家族全員への医療・保健サービス、年金基金制度を設ける。

グラミン・フォン(携帯電話会社)の設立し、農村の貧しい人たちが、ビジネスをより効率的に進めるのに役立っている。

インターネットの導入にも力を入れている。



98%以上の資本回収ができ、借り手の半数以上が貧困層から脱却した。

貧しい人たちを貧困から解放するだけでなく、政治的・社会的な奴隷状態からも解放した。

貧しい女性たちの自由と自立を生み出した。

このマイクロクレジットプログラムは、バングラデシュだけでなく、他のアジアの国々、アフリカ、中南米、に急速に広がっている。

途上国だけでなく、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなどの先進諸国までもが関心を示し、貧しいコミュニティで、マイクロクレジットを実施し、成功をおさめた。

戦争被害国であるコソボ、アフガニスタンでも成果をあげている。



ムハマド・ユヌス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家
ムハマド・ユヌス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家
ムハマド・ユヌス /猪熊弘子 訳/早川書房 (1998/10)

リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝
リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝
ヒラリー・ロダム・クリントン/酒井洋子 訳/早川書房 (2003/12/23)

マイクロファイナンス読本―途上国の貧困緩和と小規模金融
マイクロファイナンス読本―途上国の貧困緩和と小規模金融
岡本真理子、吉田秀美、粟野晴子/明石書店 (1999/11)

バングラデシュを知るための60章
バングラデシュを知るための60章
大橋正明 、村山真弓/ 明石書店 (2003/08)

「南」からの国際協力―バングラデシュグラミン銀行の挑戦
渡辺龍也 /岩波書店 (1997/03)




貧困を根絶する最良の方法は雇用を作ることである。

経済学者たちは、1種類の雇用―賃金雇用―しか認めていない。

ゆえに、子供の頃から、就職の時に有利になるように、一生懸命勉強してすごす。

就職のための準備を終えると、私たちは仕事を得るために、求人市場に自分から乗り込んでいく。

もし雇用主を見つけられなければ、貧しく惨めな暮らしを余儀なくされる。

人々が自分の運命を自分で操れるようにならなければ、貧困から脱することはできない。

ユヌスは、自己雇用の原点に戻ることを勧めている。



日本人の多くは、ここ数年の不景気により、企業倒産、リストラが相次ぎ、雇用の場が奪われている。

少子高齢化により、年金受給額は減り、高齢者の生活が保証されない時代がやってくる。

政府は当てにならない。自分を守るのは自分以外ないのだ。

自分の人生を、自ら舵取りできる環境が早急に望まれる。

お金を貸したら、それでおしまいではなく、グラミン銀行のように、健康サービス、保険、年金にいたるまで、メンバーの人生全般に関わってくれる民間銀行の存在が、今後の日本にも必要となるのではないだろうか。



グラミン銀行(英語)

日本リザルツ(日本)

マイクロクレジットの問題点



応援GO!GO!
塚本幸一(ワコール創業者)

私の行動規範は「生かされた」を原点にしてきた。
そして何かに取り組む時は、
自分のその時々の能力や環境を考慮した上で、
「できるか、できないか」を判断基準にしてきた。
つまり「できないこと」は、考えることもなく、受け付けない。
他方、「できること」は、
やらねばならないことと、やってはならないことに分けた。
やらねばならないことに対しては、
考えることそれを実行する間で、時間を置かないようにした。
つまり取り組む内容が、重大なこととか、
大変難しいことなどと考えると、
体が硬直したりしてもてる力を減殺してしまう。
これでは行動に移る前から、自分を萎縮させてしまう。
病気にしても、病気を恐れたり心配し、
医者や薬を疑っていては、いくら治りたい気持ちがあっても、
精神活動自体が病気を悪化させる。
平常心という言葉があるが、
何か思いがけないことが起こった時の心の持ち方、
対応の仕方によって人生は大きく変わる。
そういう時こそ、人生の分岐点であるから
「ピンチはチャンス」とすることが重要だろう。
私の場合、生かされ預かりものの人生という、
一種開き直りがあるため、頭で考えるより、
おもむくままに行動できた。
ある意味では、
最もナチュラルな生き方をしてきたと言っていい。
また私は人生にリハーサルはないと思ってきた。
経済現象を実験室で実験できないように、
刻々と進む時間の中で、人生は常に“ING”だからだ。
こんな考え方をもとに、私は復員の日以来、
働き続けてきた。

―塚本幸一(ワコール創業者)―








塚本幸一は大正9年(1970年)、9月17日、父・粂次郎、母・信の長男として、宮城県仙台市に生まれる。

本家の仕打ちにより、一家離散の憂き目に遭う。

父の商売が軌道にのり、京都で一家4人の生活がはじまるが、父の散財のため、生活は決して楽なものではなかった。

「早く大きくなって、お父さんを助けてあげて。
そして、本家を見返しておくれ」


この母の言葉を、塚本は幼い頃、何度聞いたことであろうか。

幼い頃すでに、彼は「絶対に、商人になる」と、心に決めた。



京都の小学校を卒業すると、塚本は近江商人の“仕官学校”
と呼ばれていた滋賀県立八幡商業学校(現在の県立八幡商業高校)
に進学する。ここで、素地をつくる。



卒業後は、父の経営する「嘉納屋商店」に勤務する。

父は、最初の1年間は、見習いとして、奥羽、東北など得意先を
一軒一軒連れて回った。

夜汽車に乗り、商品やサンプルがいっぱい入った
風呂敷包みを担いで歩いた。

頭を下げた。塚本は、体で商売を覚えていく。



昭和15年の暮れ、20歳になった塚本は、入隊する。

昭和18年6月、インド東部の制圧を目的とする
「インパール作戦に」参加する。

戦史上もっとも無謀で過酷な作戦のひとつであった。

飢え・渇き・マラリア・赤痢で、次々と仲間が死んだ。

精神は麻痺し、生き地獄を味わった。

小隊55人のうち52人が戦死した。

祖国へ戻る引き揚げ船のなかで、

「なぜ、俺はいきているのだ」
「どうして、俺だけが生き延びたんだ」


と何度も何度も自問した。

「そうだ。自分は生きているのではない。
生かされているのだ。
であるならば、これからの自分の人生は
生かされた人生であって、自分個人だけのものではない。
敗戦後の日本の再建のために、
自分を必要として生かしてくれたんだ。
だから、私はその期待に応えよう。」


昭和21年6月15日早朝、塚本幸一は、復員する。

家に戻ると、復員の挨拶のため、裏に住む叔父のところを訪ねる。

そこに井上と名乗る客が商品の見本を広げ、叔父と話はじめた。

塚本は

「これ数珠でっか?」

と尋ねた。

「あほかいな。模造真珠のネックレスや」

と聞きなれない言葉が返ってきた。

「この売り先を探しとるんや」

と井上氏は続けた。


塚本は、戦前飛込みで開拓した、京都市役所前にある趣味の店
「ハナフサ」を思い出しさっそく出向く。

ハナフサは、ちょうど仕入先を探しているところだった。

それぞれの商品の仲介をし、双方から仲介料を稼いだ。

これは売れる、と思った塚本は、両者の商品を
トランクいっぱいに借り、商売をはじめた。

資本ゼロからのスタートをきる。



父の掲げた「和江商事」の名前を使って商売をはじめる。

竹ボタン、竹に刺繍張りのブローチ、金唐草革財布、
ハンドバック、キセル、模造真珠のネックレスなど、
商売になるもなら何でも手当たり次第に扱った。

九州、中国、四国と満員の夜行列車に乗って駆け抜けた。

昭和23年には、八幡商業の同級生、川口郁雄を、
翌年同じく同級生の中村伊一を口説き落とし、
和江商事に引き入れる。

この2人は、後のワコールにとって、
なくてはならない存在となっていく。



試行錯誤、一進一退を繰り返しながらだが、
まずは食っていけるだけの商いはできた。

が、はやりすたりの変化が激しい装身具の商いに限界を感じていた。

そういうさなか、東京から「共立商会」のセールスマンが、
ブラジャーを売り込みにきた。

すぐに売り切れた。戦後の混乱期、以後商品は入ってこなかった。

今度は紹介状を持って、安田武生という男が
「ブラ・パット」を持ち込んできた。

「これはいける」


と直感が働いた。


チャンス到来と夜行列車に乗って、東京に向かう。

銀座4丁目の交差点の向こう側の歩道をみると、
装身具商いの頃からの宿敵青山商店の販売部長が立っていた。

青山商店もブラ・パットを取り扱っていることを知る。

ブラ・パットを全て売り切ると、京都に帰るなり、
安田氏と独占契約を結んだ。

ブラ・パッド単品では拡販が難しかったので、
塚本は、妻の体で型紙をとり、試行錯誤の重ねて、
ブラジャーとガーターベルトを作った。

これが女性に大喜びされ、和江商事のヒット商品となる。

消費者に喜んでもらうものさえ作っていれば商売になる。


それが塚本の信念となった。

リュックを背負い、夜行列車を乗り継いで、全国各地を販売した。



昭和23年の秋、父・粂次郎が他界。

これを契機に、個人商店和江商事を整理し、
正式に株式会社として法務登録して、
昭和24年11月、和江商事株式会社が誕生する。



だが、スタートしたとたん洋装下着がパッタリと売れなくなった。

その年の冬はことのほか冷え込みがきつく、
洋装女性が一斉に温かい和服に衣替えしたのである。

会社はつくる。従業員は増える。経費はかさむ。
独占契約を結んでいたので、ブラ・パットは次から次へと送り込まれ、
在庫はたまる。資金は底をつく。

起死回生のはずだったベビー服も失敗し、
ますます在庫を増やすはめになった。

人員整理も考えた。

だが、住み込みの若い店員の寝顔をみていると、
とても言い出せない。

知人からはボロクソに言われる。

昭和25年の正月は、文字通り餅ものどを通らない。

血便のでるような苦しみだった。



突然、塚本のなかで、50年計画がパッとひらめいた。

「はたして、世界の人類のなかで、
今から50年計画を立てていきていこう
とするヤツが何人いるだろうか。
それはおらんはずだ。
ましてや、日本のオレぐらいの年齢の商売人に、
そういうことを考えているヤツがおるだろうか。
いないはずだ。
そうすると、もしオレが、運良く50年計画をやりきったら、
オレは世界一になれる。
いや、世界一になるしかないやんか」


1950年代 「国内市場の開拓期」
1960年代 「国内市場の確立期」
1970年代 「海外市場の開拓期」 東南アジアに進出する。
1980年代 「海外市場の確立期」 いよいよ米国進出する。
1990年以降 「世界企業の確立」 欧州へ進出し世界制覇
                     を果たす。


夢を見るのは自由である。

良いことずくめの理想を掲げると、金がなくて
気持ちまでみすぼらしくなっていた自分がシャキッとしてきた。

そして、朝礼で、この大構想を発表した。

日々の商売は世界制覇どころか足元もおぼつかない。

皆、ポカンと口をあけたまま、塚本の言うことを聞いていた。

その後、この50年計画は前倒しで実現していくのである。



この50年計画は、宗教法人「自然社」の小野悦氏との出会いで、
さらに強固なものとなった。

どうして難関を突破すべきか、その心構えを小野氏に問うた。

すると、

「難関というのはこの世にない」


といとも簡単に答えた。


「難関は個人の主観であり、
絶対的なものではないと教えられた。
絶対的な難関というものがあれば、
千人が千人耐えられなくなり、自殺に至ることになる。
ところが現実には、そんなことは起こっていない。
かける眼鏡が違えば、難関は難関でなくなるのだ。」


自然社は宇宙の法則や人間の本質を説いていた。

その教えの究極は「生かされている」というところにあった。

塚本は、次から次へと疑問をぶつけ、教えを受けていった。

最後の疑問が解けた瞬間、塚本は「わかりました」と言うと同時に、
涙や鼻水を流しブッ倒れた。

それを契機に自然社を退会する。



塚本は、現実の商売の危機を打開すべく、
東京衣料雑貨問屋、半沢商店に売り込みに出かけた。

店に入ると、

「待ってましたよ」

といきなり、百ダースの注文をしてくれた。

春シーズンを前に仕入れを始めるところだったという。

なんとか最悪期を脱した。

塚本は、百ダースの代金をお金でなく、
コルセットでもらいたいと申し出て、
売れそうな商品を京都に持ち帰る。

和光商事のラベルに貼りかえ、売り歩いた。

仕入れ分は、またたく間に売り切れてしまった。

塚本は5日か1週間に1度の割合で、京都・東京を往復した。

そうした日々が、3ヶ月続くと、
和江商事の収支はたちまち黒字に転化する。



が、そのうち半沢商店から、

「ブラ・パットは、もういらない」

と告げられる。

より優れたブラ・パットを半沢商店が開発したのだ。

結局、取引が続いたのは、
和江商事の独創商品のブラジャーだけだった。



ところが、このブラジャー製造にも暗雲が立ちこめる。

和江商事のブラジャーをつくっている工場が横流しを始めたのだ。

信頼できる工場を必要とした。

知人から木原光次郎を紹介される。

彼の手抜きのない仕事ぶりは、業界内でも評判だった。

信頼できると判断した塚本は、専属縫製工場契約を結ぶ。



コルセットも作りはじめた。

それでも、塚本には不安がつきまとう。

木原工場は、売れ筋の二本柱を製造段階で握ることになる。

木原光次郎が、いつ独立すると言い出すとも限らない。

塚本は、木原工場との合併話を持ち込んだ。

なかなか首を縦にふらない。

塚本は、木原を社長、塚本が専務という条件を提示し、承認を得る。

昭和26年7月1日、木原工場と合併。

和江商事は木原工場のある室町に移転する。

「婦人洋装メーカー」和江商事が誕生した。

しばらくすると、木原工場の入っている建物全体が
売りに出されたのを機に、それを買収し、和江商事は工場、
本社社屋も自前の会社になる。



塚本が専務という状態は、長くは続かなかった。

会社が傾き始めた。

木原社長に対する不満の声が社内であがりはじめたのだ。

塚本は、和江商事の将来のため、木原の社長更迭を実施し、
再び社長の座に返り咲く。



塚本は百貨店攻略に全力を注いだ。

当初は門前払いの毎日だった。

半沢商店を通じて、和江商事の商品を納入するにとどまっていた。

直接納入してもらうように、交渉を持ちかけた。

仕入れ担当者に会っても、相手にされない。

何度も何度も通った。

塚本はくいさがり、高島屋大阪店のテストセールスの
チャンスを掴んだ。

5対1で、ライバルの青山商店に圧勝する。

それを皮切りに、大阪の仕入れ担当者たちを夜討ち、朝駆け、
疾風迅雷の勢いで責め続けて、瞬く間に
すべての大阪の百貨店の売り場を攻め落とした。

賄賂や接待づけという方法をとらず、常に正攻法で挑んだ。

阪急百貨店のホールで、
「男子立ち入り厳禁」の下着ショーを開催する。

バカ当たりした。

テレビ放送が始まったころで、各地のテレビ局にとりあげられる。

婦人向けの洋装雑誌からの取材依頼が殺到した。

全国の百貨店から「うちでもやってくれ」という依頼があいついだ。

いろいろな相乗効果もかさなって、
ファンデーションは大いに普及したが、
和江商事の名はまだ関西ローカルにとどまっていた。



東京市場を開拓しなければ、“日本の和江商事”にはなれない。

塚本幸一は自分の右腕ともいうべき川口郁雄に、
東京市場開拓を命じた。

東京の百貨店、一流専門店のほとんどは
半沢エレガンス(旧半沢商店)があらかた押さえていた。

和江商事が新たに取引を結ぶことは至難の業だった。

半沢エレガンスは、徹底した賄賂政策で、妨害した。

当時の東京では、大阪の商品を『阪物』-「ハンモノ」「サカモノ」
と呼んで蔑視する風潮があった。

大阪は現在の香港のような存在で、
イミテーション製造のメッカだったからである。

門前払い、罵声、無視という冷遇のなか、川口は

「訪問回数は売上高に比例する」

と自分に言い聞かせ、重い足を引きずって、通った。

少しずつ、川口の努力が実を結ぶようになっていく。



昭和28年10月、アメリカを代表する下着メーカー、
ラバブル社とエクスキュージット社が上陸してきた。

アメリカの2大メーカーが相次いで日本に上陸してきたら、
和江商事だけでなく、基盤がまだ脆弱(ぜいじゃく)な
日本の洋装下着業界などひとたまりもない。

塚本は、両社に乗り込んで、独占販売契約を締結し、
2大勢力との正面衝突を回避した。

この業務提供により、和江商事はファンデーションだけでなく、
ランジェリー部門への進出をはたすことになる。

東京で一緒に百貨店を回ると、それまで和江商事だけなら
門前払いだったのが、米国人と一緒だと社長室に通される。

2ヶ月足らずで、百貨店の売り場はエクスキュージット社の商品で
埋まっていった。

それは、あくまでも最初だけだった。

徐々に、和江商事の商品と入れ換えていき、
最後は百貨店の売り場には、和江商事の商品だけが並べられた。



ラバブル社が慌てた。

しかし、契約に他者と提携してはならないという条項はない。

12月から製品を引き取れというだけだ。

塚本は動かなかった。

在庫がたまってきたラバブル社は、
横浜の洋品店数軒に製品を卸した。

明らかに独占販売契約に違反する。

すぐに和江商事は、京都の地方裁判所へ、
保証金百万円の返却と契約解消を訴えた。

ラバブル社の商品、工場の機械設備をすべて差し押さえた。

ラバブル社は出鼻をくじかれることになった。



一方、エクスキュージット社も意外な盲点に足下をすくわれた。

米国サイズの商品が日本人の体型に合わず、
売れ行き不振で撤退を余儀なくされた。

代わりに和江商事の商品が店頭にならぶことになる。

和江商事は業界の人々にインポート・ブランドも扱っているという
高級なイメージを持たせることができた。

高島屋との取り引きを実績をきっかけにして、
三越をはじめ都内の有名百貨店、一流専門店へ
和江商事は販路を広げていく。



昭和32年11月には、「ワコール(WACOAL)」と社名をかえ、
昭和35年1月には、京都西大路に
鉄筋3階建ての新本社ビルを新築する。



塚本は、昭和33年に結成された労働組合との
労使問題に悩まされる。

これは、創業経営者が企業の急成長の途上で、
かならず一度は直面する問題でもあった。

塚本は、憔悴しきって、70キロあった体重は45キロに減り、
不眠症で、肌が水気を失い、ガサガサになった。



そんな時、京都経済同友会のセミナーで
出光興産の出光佐三の講演を聴く。

「わが社には定年制も出勤簿もタイムカードもない。
日本人は長い歴史の中で
人間尊重の風土を築きあげてきた。
わが社の経営の理念は一口でいえば
人間尊重を基本にしたものといえる。
わが社には7千人の社員がいるが、
みな喜々として働いている」


と経営理念を熱く語った。

人間尊重の経営こそが塚本幸一の目指すものだった。

『そもそも、社員を信頼しきっていただろうか。
そうとは言えない。
相手を信頼していないのに、
信頼を求めるというのは、間違いだ。
まず、自分を変えよう。
徹底的に社員を信頼する。
それもわかる形で示す。』


翌日、緊急役員会を開き、

「これからは、何時にこようが、帰ろうがかまわない。
組合の要求はすべてのむ。」

と宣言する。

役員は全員

「こんなことをしたら、会社は潰れてしまいます」

と反対する。

塚本は

「もし社員が法外なことをいって会社をくいものにするなら、
そうした社員に育てた経営者の責任だ」

と言い放った。

役員全員、腹をくくった。

組合は祝杯をあげるどころか、緊急大会を開催し、

「満額回答にこたえ働こう!」

という方針を採択した。

以来、「相互信頼の経営」がワコールの社是となる。



昭和39年には、社名を「株式会社ワコール」に変更し、
株式上場を果たす。

同時に、東京浅草橋に7階建てのビルを購入し、
ワコール東京店を創設した。



昭和44年創業20周年を迎えた。

50年計画では、いよいよ海外への挑戦がはじまる。

昭和45年に大阪万博を、海外へのステップとして、
内外にワコールを示す絶好の機会だととらえた。

リッカーミシンと共同で出展し、大成功をおさめる。

これを機に海外進出にも一気に乗り出した。

韓国の和江繊維、タイのタイワコール、
台湾の台湾ワコールと相次いで合弁会社を設立した。

品質に自信がないうちは、「ゴー」のサインを絶対に出さない。

一年かけて現地の従業員に縫製技術を習得してもらった。

品質一本主義を貫く。



40年代から、日本経済の高度成長とともに大衆社会が出現し、
社会は大量消費の時代に突入する。

その時代背景にした、量販店、スーパーの台頭は著しいものがあり、
価格破壊の安売り攻勢が行われた。

量販店やスーパーからのワコール商品の大量仕入れの
申し入れに応じることは、すでに高品質のイメージが定着していた
「ワコール・ブランド」の商品を損なう。

ひいては百貨店、有力専門店など従来の得意先にも
影響を及ぼす恐れがあった。

塚本は、

「いかなることがあっても正当な理由のないバーゲンセールには商品を出すな!」


と社員に厳命する。

だが、急成長する巨大市場を、ワコールとしても、
もはや見過ごすわけにはいかなくなる。

ワコールブランドのイメージを傷つけないためには、
どうしたらよいのだろうか。

ワコールは、別ブランドを立ち上げる。

ワコールの妹ブランド「ウイング(WIC)」をスタートさせた。                
スーパーでは、ブラジャーの平均価格は380円だったが、
ウィングは、品質を守るため、中心価格を1,000円に設定し、
下限を800円にした。

そして、ウィング専用のコーナーを設置するように要求した。

ウィング商品は、売り出しと同時に爆発的に売れた。

売上は倍々ゲームのように毎年伸びた。



万博が終わるころ、大波に襲われた。

昭和46年になると、「ノーブラ運動」が日本を嵐のように上陸する。

ブラジャーの売れ行きが鈍り始めた。

「お先真っ暗」といった不安が社内に広がり出した。

困難な状況を打開するためには、
経費節減をはじめ社内を引き締めるしかない。

それにはまず経営者のトップが、
社員にその意気込みを知らせる必要がある。

塚本は、理髪店に駆け込み、丸坊主にした。

丸坊主のパンチは効いた。

社員が一団となったのだ。

わずか3ヶ月でブラジャーをつけていても、
分からないシームレスブラを開発、
再び売上げを伸ばすことができた。



今度は、突然、石油ショックがやってくる。

物価が上昇するなか、

「ワコールは今後一年間、値上げを行わない」

と宣言。

この価格凍結がワコールの信用を高めることにつながった。



米国進出に力を注ぐ。

米国は広く、単独で出るにはどうしても資金、人材などで厳しい。

現地メーカーの買収からスタートする。

ティーンフォーム社を買収し、ヨーロッパ風の優雅さ、日本の技術、
米国女性に合うデザインをうたい文句に、
徐々に米国市場に食い込んでいった。

だが、3年間は社長を交代しない契約だった。

彼らは、ワコールのバックを得たのを機会に、拡張計画を実行する。

十分な調査もせず、新製品を開発し、見込み生産をしたため、
販売を始めるとまったく売れなかった。

またたく間に倉庫は在庫であふれた。

大幅な赤字を背負った。



一方、日本の市場は徐々に成熟し、
新しい感性が求められるようになった。

それだけによけいに新時代に対応する経営、
社内体制が必要と痛感した。

昭和52年、塚本は10年後に社長を退任すると宣言する。

昭和62年6月15日、
長男・能交(よしたか)が、ワコール社長に就任する。

塚本は、会長に退く。



米国の市場では、問題が山積みしていた。

日本のことは、新社長に任し、塚本は米国へ飛んだ。

米国の小売業界は当時、日本のスーパー草創期を思わせるような
不毛の価格競争に喘いでいた。

米国でも理由もなくバーゲンはしないという信念を貫いた。

ハイクオリティ、ハイセンスをうちだすワコールは苦戦を強いられる。

しだいに米国市場も好景気の追い風を受けて、
ただ安ければいいということから
良いものが欲しいという価値観に変わっていった。

米国有数の百貨店「ノードスローム社」から米国ワコールに、
仕入先から“もっとも優秀なメーカ”として評価された
企業に与えられる「パートナー・イン・エクセレンス賞」が贈られる。

品質・価格・サービスのほか、
販売員への教育情報提供やコンサルティング販売の徹底、
クレームの処理などの販売体制が評価されたのだ。

米国の一流百貨店という百貨店が、
ワコール商品を下着売り場の中心においてくれるようになった。

ワコールは、米国下着メーカーのトップのひとつとして
君臨していくことになる。



平成3年フランスでの本格販売を開始する。

フランスでは通常、セールスマンは得意先を1人あたり200軒もち、
シーズンに1回注文をとるだけの商売をしていたが、
塚本は得意先を1人あたり60軒に限定して何度も足を運ばせ、
リピートオーダーに応じるようにした。

キメの細かいサービスとして喜ばれ、好評でワコールへの
信頼を高める結果につながっている。

ワコールが前年の11月から5ヶ月間、ルーブルの服飾美術館で
「ロココの衣装展」を開催したこと、
京セラと共同で実施した「現代日本画展」など、
文化活動に熱心な企業として知られていたことも、大いに幸いした。



以後、塚本は、ワコールの経営をすべて新社長に任し、
京都への恩返しと思って引き受けた、
京都商工会議所会頭として、文化事業に邁進する。



平成9年9月、心筋梗塞で倒れる。

翌年6月、肺炎を併発し、逝去。享年77歳。

50年計画の終わりまで、あと2年と2ヶ月を残してのリタイアだった。



ザ・メッセージ ワコール 塚本幸一(DVD)
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日経ベンチャー /日経BP社 (2004/07/17)

夢の行方―塚本幸一とワコールの戦後
夢の行方―塚本幸一とワコールの戦後
塩沢 幸登 /マガジンハウス (1999/07)


塚本幸一―わが青春譜
塚本 幸一 /日本図書センター (2005/01)

貫く―「創業」の精神
塚本 幸一 /日本経済新聞社 (1996/10)

ふたつの轍―ワコール・塚本幸一を支えた男たち
立石 泰則 /日本実業出版社 (1991/02)

乱にいて美を忘れず―ワコール創業奮戦記
塚本 幸一 /東京新聞出版局 (1992/11)

ワコールの挑戦―創業者塚本幸一の軌跡
高橋 美幸・根本 哲也 /ビジネス社 (1996/04)

私の履歴書
塚本 幸一 /日本経済新聞社 (1991/01)

女性を創造する―ワコール物語
立石 泰則 /講談社 (1996/02)

華麗なる挑戦―小説・ワコール王国
渡辺 一雄 /祥伝社 (1994/01)



悲惨な「戦争」体験から、その対極にある「平和」な時代とは、
女性が美しく幸せに生きる社会の実現である」と確信し、
以後それを貫いた。

下着を身につけるという概念がない時代に、
行商やデパートでの下着ショーなどを通じて、啓蒙活動を行った。

目先の利潤にとらわれることなく、調査・研究に資金を投入し、
フィット感に始まる機能性を追及していく。

女性にプロポーション意識をもたせ、
理想体型の実現を可能にするという夢を与えた。

そのために、品質一本主義を貫いた。

量販店至上主義の時代においても、
理由なしのバーゲンセールを徹底して禁止し、
ワコール・ブランドを守った。

世の中がバブルに踊り、多角化経営や財テクなどに
狂奔しているなかでも、本業以外には目もくれなかった。

優れた商品を生み出すための土壌をひたすら固めた。

バブルがはじけて減収・縮小・倒産の憂き目にあっているなかで、
ワコールは売り上げを伸ばしている。

一時的な現象に踊らされている企業が多いなかで、
ワコールの一貫した、信念に裏づけされた経営方針は
学ぶところが多い。


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